代表 安田 の自己紹介 

 

家やビルを建てることは、あなたの人生の大きな節目になります。

うまくいけば、建物はあなたの人生を応援してくれる心強い存在になります。 でもその逆も有りえます。

建築設計の是非があなたの人生に与える影響は計り知れません。

そんな設計を誰に託すかですが、設計技術がすぐれているのは当然のこととして、大事なのは、「相性」 です。

 

「人格」 は日々精進して積み重ねていくものですが、 「性格」 は生まれ持った部分が大きく、

幼少期に置かれた環境や、育てられ方が大きく影響するものだと思います。

 

ですから私は、まず、自分の半生を赤裸々にお話することから初めたいと思います。

 

寒かった幼少時代


安田の幼少期

 

昭和30年6月24日、私は京都御所のとなりに生まれました。

あなたは、映画 「三丁目の夕日」 をご覧になりましたでしょうか?

映画そのままの、暖かく、元気で、楽しい昭和30年代でした。

 

わたしは母から 「うちは中の上」 と言われて育ちました。

負けん気の強い母親は 「中」 だけでは納得せず、中をさらに上・中・下に分類たのです。

素直な私は、なんの疑問ももちませんでした。

 

ところがわたしの家は借家でした。

安普請であり、隙間風というより、どこからでもど〜ぞ、とばかりに冷たい風が吹き込んできます。

ともかく 「寒い〜」 というのが私の少年時代の思い出です。

当時は今よりも気温が低かったのかもしれませんが、寒さが堪えたのは食糧事情の悪さもあったと思います。

私の家は明治生まれの姑(祖母)が仕切っていて、母の自由は一切なく、食事は老人向けメニューだったんです。

私は小学校にあがったとき、給食のおいしさに感動しました。

「おかあさ〜ん、給食みたいにおいしいご飯つくって!」 と本気でお願いしたことを思い出します。(母は辛かったことでしょう)

 そんなワケで、私は寒さがトラウマにまりました。

 

小学校低学年までは家に暖房設備は一切なく、火鉢がひとつあっただけです。 私は火鉢にかじりついて生活しました。

 

高学年になったある日、1台のガスストーブが来ました。

ガスの青い炎、しばらくすると赤くなるストーブに、見惚れてぼんやり、良い気分になっておりました。

 

日曜日の夜は、6帖の居間に家族9人が集まってプロレスを観戦します。 もちろん白黒テレビです。

「頑張れ、力道山!」  

「空手チョップで、敵を倒せ!!」

狭い部屋にすごい人口密度。

ガスストーブをガンガン炊いても、風通しが良すぎて、私達が酸欠で倒れることはありませんでした。

 

 

もちろん夏の暑さにも閉口しました。

強烈な太陽熱であぶられ、素手で触ろうものなら火傷するであろう黒瓦の下、断熱という認識すらないあばら家。

そんな2階の間に張られた蚊帳(かや)の中は無風状態。

髪の毛はびっしょり濡れてへばりつくき、首筋に汗が流れる。

こんな状態では、かなり体力がないと眠れません。

 

 

あの頃の、ひどい暑さと寒さの経験、いやむしろ、屈辱と反発精神が、「ハワイの気候を日本に創る!」 の原点なんです。

 

 

工作に明け暮れた少年時代


「夏休みの工作」 は、私の小学校時代の一大イベントでした。

 

小1のときは、京都の五山の送り火  「大文字焼き」 を作りました。

まずは粘土で大文字山の形を作ります。

そのうえに細かくちぎった新聞紙を水に濡らして貼り付けます。

粘土がすっかり新聞紙で覆われたら、今度は水糊をつけた新聞をまんべんなく貼り付けます。

それを3、4回くりかえして、一昼夜乾かします。

すっかり乾いたら、粘土を外します。 これで、大文字山の形ができたわけです。

山の表面には緑と茶色の絵の具で木を書きます。

大の文字を小刀で切り抜いて、裏に赤いセロファンを貼って、豆電球を仕込みました。

 

3日がかりでつくった大文字焼きに、いよいよ点灯です。

部屋を暗くして、ドキドキしながらスイッチをいれる 「大」 という字が浮かび上がりました。

そしてなんと、障子にも赤い光が移りこんで、とてもきれいです。

我ながらうっとり・・・

 

小学校3年のときは、メリーゴーランドを作りました。

クリスマスケーキの箱が土台です。

その中心に、ギヤをたくさん組み合わせたモーターを取り付けました。 

ケーキの箱の表面で、レコードプレーヤーのように、円盤がゆっくりゆっくり回ります。

 

つぎは、ケーキの箱の底に、ドーナツ状の道をつくります。 道を上下に起伏を付けます。

その道に一輪車に乗った馬に走らせようという設計です。

起伏のある道を一輪車が走ると、馬は上下しながら円弧を走る、 はずです。

 

ところが一輪車がうまく走ってくれない。

タイヤが少しでも進行方向からずれると、軌道から外れてギュッと止まってしまうのです。 これには困りました。

試行錯誤の上、タイヤを諦め、毛糸の手編み用竹針を採用することにしました。

手編み用竹針には先に丸い玉がついており、それを底にしてドーナ上の道を滑らせると、うまく走りました。

竹針の先には馬がついていて、道の起伏に沿って馬はうまく上下してくれました。

しかも馬は、時折、右や左にくるっと回転してくれたんです。 これは儲けものでした。

 

予定通り進まず苦労することも多いけど、諦めずに工夫しているうちに、思いもよらない贈り物がくることを知りました。

これは物づくり人間だけが味わうことができる、幸せです。

8ミリアニメの中学時代


ビデオなんてもちろんなかった昭和40年。 でも、8ミリ映画というのがありました。

フィルムを節約するために開発された16ミリ映画をさらに半分の巾に裂いたのが8ミリフィルムです。

これで怪獣ものの特撮をやろうと思っいました。

当時、特撮の円谷といえばカリスマ的存在で、ウルトラマンの前のウルトラQの時代でした。

タイムトンネルという外国のテレビドラマもありました。

タイムマシンは今でも好きで、時空を旅することを考えるとワクワクします。

 

当時フィルム代はすこぶる高く、3分間撮影するのに1ヶ月の小遣いが飛びました。

学校の授業中は暇だからノートの角にアニメをかいて、それを8ミリで撮りました。安っさんアニメの誕生。

当時、2クラスしかない小さな中学校に4人も8ミリ映画オタクがいて、映画について色々議論しました。

 

私はリズミカルな短いカットで編集した作品が好きで、バック・トゥーザ・フィーチャーは何度みてもワクワクします。

逆に今の映画でも 「俺が編集した方がマシ!」 と声に出して言ってしまう映画もあります。 まったくじれったい。

 

中学時代の8ミリの腕が建築専門学校で買われ、学校のプロモーション映画を任されることになりました。

僕は監督、カメラ、編集、俳優のオーデションなど、全て任されました。 お山の大将だ!

不良教師の水野先生の家に泊まりこみで編集しました。 水野先生はそのあと校長にまで登りつめた人です。

このプロモーション映画は、全国各地の高校で建築専門学校の生徒募集に使われました。


進路の決定


高校二年の時、進路指導の時間に僕は考えました。 自分は将来、どんな仕事がしたいか?

答えはすぐ出てきました。

 

1.映画監督 2.建築家 3.美容師 4.料理家

 

この4つでした。 どれも物づくりです。 この中からどれを選ぼうか・・・

私はまず、映画監督を外しました。 

なぜなら、一番好きな趣味を仕事にしてしまったら、しんどくなって嫌になってしまったら、もったいないからです。

美容師と料理人は立ち仕事だから、やめました。

 

残るは建築家。 建築家になった自分を想像しました。 フムフム、なかなかカッコいいぞ!

かくして1日で決定。

そのあと何度か考え直してみましたが、やはり建築家が良かった。

間違いない!

その後、今まで、一度も道を間違ったと思ったことはありません。

 

思いおこせば私の幼少期、小1の頃にはすでに建物に興味があったんです。

自分の家は嫌でした。 なぜなら、祖父が雑貨店をしていたので店を通らないと自分の家にはいれないからです。

「ただいまー」じゃなくて「毎度おおきにっ!」とお客様に挨拶しながら入るのは子供心には厳しかった。

 

そして私の家の扉は全て引き戸でした。 食事といえば、畳に座って、ご飯に味噌汁でした。

ある日、親戚のおばさんのところへ行ったらテーブルとイスで、コーヒーとトーストを食べさせてくれまえした。

私は、「こんなお洒落な生活があったのか!?」と驚き、そして憧れました。

扉はもちろん開き戸でした。 ノブをもって何度も何度も開け閉めして、その感覚を楽しみました。

 

親父に家の新築を頼みましたが、親父は取り合ってくれませんでした。

 

そのとき、自分の夢ができました。  「自分の家を持とう!」

それに、私はませた(変に大人びた)子供であり、そのころから老後の心配をしていたので、とりあえず家を持てば、

老後の資金になるだろうというのも理由のひとつでした。

 

 

 

彼女を紹介してください


 

私の先輩である谷口一級建築士に、彼女を紹介してほしいと頼みました。

「ヤッさん本気か? 結婚を前提とした彼女がほしいんでっか?」と、谷口さんは、いつもになく真剣な目つきでした。

谷口さんはテリー伊藤のようにちょっとロンパリなので、噴出しそうになるのをおさえて「はい」と答えました。

「わかった。紹介しまひょ。 そやけど、ヤッさん、彼女を紹介するには3つの条件がありまっせ!」

 

(失礼だが谷口さんは、一瞬にして3つの条件を思いつくほど頭は切れないはず。だとしたらすでに用意していたのか?

 それとも、自分が誰かに言われたことをそのまま再活用したのか?)  こんなことを想像する余裕は私にはなかった。

 

私はどんな条件が出てくるのか、固唾を呑んで待ちました。

元々どんぐり目な谷口さんの目はさらに大きくなり、

 

「ひとつ、一級建築士に合格すること」

「ふたつ、手取り20万円以上になること」

「みっつ、どんな小さくてもいいから自分の家をもつこと」

 

と、一回ずつ指をピンとたてながら言ったのです。

1つめと3つ目は、私自身も前からそう考えていたので、ぜんぜん難しくありませんでした。

 でも、給料は自分で決めるわけにはいかないし、頼んだからといって上がるわけではないので、

とりあえずできることから着手しました。

 

一級建築士は25才で一発で合格しました。

 

社会人になって初月給の日から、幼少の頃からの夢を実現するために積立型貯金していたので、

26才の時には貯金が500万円くらいできて、初めての家を買いました。

 

中古の建売住宅で、値段は忘れもしない1950万円也。 小さいけど庭付き一戸建てでした。

1階に水廻りと2室、2階に2室。

前の道に歩道があることと、隣の家との間に人が通れるくらいの隙間があるのが気に入りました。

私は嬉しくてうれしくて、犬のように家のなかを何度も歩きまわりました。 外からも眺めました。

でもなんとなく実感がない、というか、変な感じだったことも、懐かしい思い出です。

 

 

3つの条件のうち、これで2つが揃ったわけです。

残りひとつの課題については、当時は高度成長期だったので、「まあ、時間の問題だろう」と希望的観測をして、

谷口さんに「できました!」と報告しました。

条件がそろったので、私が設計したマンションの前でお見合い写真を撮ってもらいました。

カメラマンはもう一人の先輩である奥田一級建築士が担当してくれました。

 

こうしてめでたく条件をクリアした私に、お見合いの話が来て、結婚することになったのです。

でも、谷口さんからではく、他の人からのお話でした。

 

 

新婚旅行から帰ってきた日から、バイト


 

給料が上がるのは時間の問題とたかをくくっていた私は、新婚旅行から帰って受け取った給料袋をあけて驚きました。  18万円しかないのだ!

 

結婚前に女房といっしょに生活費の試算をして、21万円あれば生活できるだろうという計算でした。 

 

「結婚したら社長もちょっとくらい給料を上げてくれるだろうし、扶養家族控除で少しは手取りが増えるだろう」と、

植木等のように楽観的な考え方をしていた私は、正直、慌てました。 このままでは、結婚詐欺です・・・。

お見合い結婚の我々にとって「信頼」とはこれから一日、一日と築いていくものです。

 

 

私はすぐに奥田先輩の設計事務所へ走りました。

「奥田先輩、何も言わずに3万円貸してください!」

 

「どうしたん? ヤッさん。 まあ、落ち着け!」

 

奥田先輩は、バイトの前借ということで3万円貸してくれました。

お蔭さまで私は結婚詐欺にならずにすみましが、翌日から帰宅後のバイト人生がはじまったのです。

 

 

一期一会


 

私と女房とはお見合い結婚です。

仲人さんに感謝するとともに、ご縁を大切にしています。

 

我々夫婦の考え方は、「結婚は契約であり、契約期限は一日である」というものです。

だから私達は、契約を毎日更新しています。

おかげさまで、更新し続けて35年が経ちました。

 

私は寝る時、半分冗談で「今日もお世話になりました!」と大声で言います。

女房もまけずに「こちらこそ! 明日もよろしく!」と返してくれます。

そして朝起きたとき、「おはよう!」と言わずに 「生きてるか? 今日も会えたなぁ」と言います。

かなり気持ちの悪い夫婦であります・・・

 

話が変わりますが、私は第二次世界大戦のときの日本兵に感謝していて、良く戦争の本を読みます。

昭和19年、私の親父に赤紙がきて、兵隊に逝きましたが、運良く生還いたしました。

戦争末期に、本土防衛舞台へ回されるか、硫黄島へ配属されるかが生死をわけたのです。

人間が生きるか死ぬか、これを「運」のとひとことで片付けるのは、あまりに軽々しく、失礼極まりますが、

事実、「運」というものはあります。

 

 

父は私が小さいときから戦争のことを良く聞かせてくれました。

映画に連れて行ってくれる時は、「日本海海戦」とか「ああ特攻隊」などでした。

もちろん戦争は良くありません。

でも、「生きる」ということを考える時、私はいつも兵隊さん(もちろん日本兵)のことを思います。

 

私が今、「ハワイの気候を創生する!」 なんて寝ぼけたこと生業にしていられるのは、今の日本があるからです。

今の日本をつくってくれた先輩、犠牲になってくれた先人の礎の上で生かせていただいているのです。

ですから、真面目に生きます。

 

 

小野田少尉


私の心の支えは小野田少尉です。

小野田少尉は、ルバング島で30年もの間、戦い続けた兵隊さんです。

その強靭な心身とを思う時、私がいかに弱い人間化を思い知ります。 

 

小野田さんが30年間も一人で戦ってきたことも凄いですが、私が尊敬するのはその後の行動です。

小野田さんが帰還したのは51才の時です。

小野田さんは、2151才という人生のゴールデンタイムをすべて戦争に盗まれたようなものです。

普通ならもう、気力は残っていないはずです。

 

なのに小野田さんは52才からブラジルに渡って広大な荒野を耕し牧場をつくりあげました。

牧場は大資本がないと絶対につくれる代物ではありません。

小野田さんは国から補助金をもらっていません。

しかも帰国して書いた本の著作権料6000万円のうち3000万円も税金で盗られてました。

 

それだけではありません。

小野田さんは牧場を完成させたあと、日本の将来を思い子供の教育に乗り出しました。

 時に1984年。日本ではバブル前夜。物質さ至上主義で人間性の屈曲に気づいていない時代です。

そのときすでに小野田さんは、日本の子にもっと健全な教育をとの気持ちで「小野田自然塾」を開き、

子供に自然力をつけさせる活動を終身おこなったのです。

 

小野田少尉は人生で3つもの大仕事を成し遂げられました。

私も、まだまだやらねば!

私の寝室には小野田少尉の額(といっても、本の表紙を切り抜いて額装したもの)が飾られている。

 

 

家族と犬


我家には可愛い孫がいます。

孫といっても犬ですが・・・

ココとジャッキーとモモ。

 

ココとジャッキーはジャックラッセルテリアで、モモはチワワ。三人とも本当に良い子です。

 

犬は人間より遥かに崇高だと思います。

犬はおなか一杯食べればそれ以上欲しがりません。 人間の欲に際限はありません。

犬は戦争しません。 犬は地球を破壊しません。

 

だから私はこう思います。 「人間からダメな部分を全て取り去ったら犬になる」

 

 

 

犬はコジマというお店から引き取りました。

もちろんお金を払いましたが、これは犬の代金ではなく、責任をもって幸せにさせてもらう権利金と考えています。

犬は受身です。 

私と店の人が合意したら犬は私の家に来なくてはならなりません。

犬の顔を覗き込んで一応たずねはしましたが、やはり決定権は人間にあります。

犬が幸せになれるかどうかは人間に掛かっています。だから私は人間の子供以上に大切にします。

だって、この子たちは裸一貫で来たんだから。 何も持たずに。